【パネライ・アベレナメント】Vol.2 ~パネライの歴史②~
2020.02.18
スリーク新潟
こんにちは。スリーク新潟 高橋です。
本日、パネライより完売していたモデル達が再入荷しました!
PAM00233
PAM00914
PAM00915
PAM01043
パネライをご紹介する上で欠かせないレジェンドモデルPAM00233、
サンドイッチ文字盤になった新作2型(PAM00914、PAM00915)
そしてレディースサイズのドゥエ、PAM01043
が揃って入荷しております。
本日の
アベレナメントVOL.2ですが、前回VOL.1はパネライの歴史についてでしたので、
VOL.2はもう少し違った側面の歴史話になっております!
どうぞ!!
1.歴代オーナー
本日はパネライに関わってきた人達をまずはご紹介していこうと思います。
創業者:ジョヴァンニ・パネライ
(1825-1897)
パネライの創業者はジョヴァンニさん。
何とも言えないたくましい髭が特徴です。
オメガの創業者のルイ・ブランさんもたくましい髭でしたね。
ジョバンニの後は息子のレオン・フランチェスコ、孫のグイド、ひ孫のジュゼッペへと受け継がれてきた企業です。
2代目:レオン・フランチェスコ・パネライ
(1851-1918)
3代目:グイド・パネライ
(1873-1934)
4代目:ジュゼッペ・パネライ
(1903-1972)
パネライ家の事業を振り返ると、3代目のグイドの手腕が大きかったのが伺えます。
また、ジュゼッペの姉であるマリアも経営には大きく関わっていたようで、
ジュゼッペがイタリア海軍などを相手に納入業者としての事業を拡大させながら、一方で時計店の店舗運営を一手に引き受けていたのがマリアでした。
マリア・パネライ
(1897-1993)
19世紀末頃のパネライ家の写真。
二代目、レオン・フランチェスコ・パネライと妻のジェスティーナ。
そして子供のグイド、エンマ、ダリオ、ピラーデたち。
おそらく、自分達の屋敷の庭だと思われるのですが、広大そうですよね。。。
実はパネライ家の詳細な歴史的な資料や事実はなかなか分からないのです。
1966年にフィレンツェの市街を呑み込んだ大洪水で関連資料の大半が失われているからです。。。。
2.事業拡大の背景
創業者:ジョヴァンニ・パネライ
(1825-1897)
このたくましいお髭のジョヴァンニさん、この方が1850年頃、フィレンツェのアルノ川にかかるグラツィエ橋の橋脚の上に時計店をオープンさせました。
実はフィレンツェに初めて出来た時計店でもありました。
↑フィレンツェ
ルネッサンス発祥の地。
市街中心部は町全体が世界遺産。
一度は行ってみたいところです・・・・
あの、ミケランジェロやダ・ヴィンチを排出した町。
ガリレオ・ガリレイも住んでいた町。
凄いですよね。
なお、パネライの当時の時計店名は『Orologeria G.Panerai&Co.』(G.パネライ時計店)。
1876年に橋の拡張工事に伴い移転。その後もフィレンツェ市内を転々とし、1880年頃に現在の場所であるサン・ジョヴァンニ広場3番地に落ち着きました。
パネライ時計店が成功をおさめた理由
◆修理事業にも積極的に取り組んだ⇒修理部門がフィレンツェ初の時計学校も兼ねていた。
修理用部品や付属品、精密機器を扱う為の倉庫も所有しており、スイスから部品の状態で届けられた時計は、ここで組み立てられ、パネライ時計店のみならず、トスカーナ地方全体の時計店へと出荷されていたのです。
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こうして、ジョヴァンニの手により時計店は発展していきました。
1897年にジョヴァンニがこの世を去ると、息子のレオン・フランチェスコへと託されました。
2代目:レオン・フランチェスコ・パネライ
(1851-1918)
当時、レオン・フランチェスコの息子であるグイドも24歳という若さながら経営に参画し、父を支えました。
そして、19世紀から20世紀に移り変わる時期に店名も
『Orologeria Svizzera(スイス時計店)』に改名されました。
ちなみに、これはグイドの発案だったそです。
3代目:グイド・パネライ
(1873-1934)
パネライの最初の大躍進を支えたのが、三代目となるグイドでした。
彼は経営能力に長けていました。
事業の拡大を図り、一般顧客相手の商売だけでなく、イタリア国鉄やイタリア海軍とも契約を結んで時計の納品を開始しました。
国鉄に対しては鉄道員に時計を供給し、その代金は給料から天引きするというシステムを考案。
イタリア海軍へはタイマー付きの懐中時計が納入されていたという記録が残っています。
なお、この時期に画期的な発明をしています。
硫化亜鉛と臭化ラジウム、メソトリウムを合成した発光物質ラジオミールの発明です。
1913年頃のことで、パネライはこれを使いロンコーニ照準器など開発しました。
1915年にはイタリア、次いでフランス、イギリス、アメリカでも特許申請がなされ、
パネライは照準器の分野で第一人者となりました。
この照準器の納入により、パネライとイタリア海軍との関係はより深まっていきました。
そして、照準器だけではなく、ラジオミールを使用した水深計やコンパス、魚雷発射装置などが開発されていきました。
こうして、イタリア海軍との深い繋がりを持つことになったパネライ。
そのパネライが現在へと繋がるダイバーズウオッチを開発したのが4代目のジュゼッペとなります。
4代目:ジュゼッペ・パネライ
(1903-1972)
1935年にイタリア海軍が極秘機密事項として『特殊潜水時計開発プロジェクト』を発足。
当時特殊潜水部隊の創設が計画されており、それに伴い潜水夫用の特殊な防水時計の採用が急務だったのです。
海軍は市販用の腕時計を使って各種テストを実施したのですが、結果的に蛍光性や防水性など設定した基準をクリアするものが存在しませんでした。
そこで海軍が目を付けたのがパネライでした!!
前回もお伝えしましたが
SLC(Siluri a Lenta Corsa=低速魚雷)に乗って、水深10Mの深さを航行する攻撃艇。
このSLCには船首に爆薬を搭載することができ、これにまたがり敵艦まで行き、爆薬を取り外して敵艦の竜骨の下に取り付ける特殊部隊の為に
暗闇でも視認することができ、防水性も確保された時計が必要だったのです。
ちなみに、このSLCは通称『豚』と呼ばれていました。
海軍技術部 テセオ・テセイ大佐
(1909-1941)
この大佐が訓練の後に他の乗組員に『さぁ!この豚にしっかり抱きつけー!!』と言ったそうです。
それから、このSLCは豚と呼ばれるようになったとか。
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そんなわけで、海軍の要請に基づき時計を作るようになったのは前回お話しした通り。
初期に作られて1938年に実戦に使われたのが↑こんな時計でした。
この何とも言えない道具感。。。
年数を経てもなお、このカッコよさ・・・・
ちょっと文字盤がずれているように見えますが、そこも愛嬌です。
パネライは軍に供給していた約60年間で、生産した時計の本数はたったの300本。
当時のパネライを持っていたら価値ありますよね。。。。
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今日のパネライ
はい、歴史ばかり紹介していてもつまらないという方もいると思いますので
現在購入することのできるパネライを1本ご紹介していきます!!
RADIOMIR S.L.C. 3 DAYS ACCIAIO – 47MM
PAM00425
そして6時方向にあるSLCのマーク。。。。
ヤバイっす。
女子的には『かわいい♡』となる高得点ポイントです。
ぜひ、通好みのPAM00425 、実物をご覧になってみてください!!
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過去記事
PANERAI avvelenamento Vol.1~パネライの歴史~
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