【Grand Seiko 特集】歴史を深堀り編 Vol.1~服部金太郎~
2024.02.23
スリーク新潟、スリーク富士見、スリークEXPOCITY、スリークWEB STORE
開催店舗:スリーク新潟 スリーク富士見 スリークEXPOCITY
期間:2024年3月2日(土)~4月7日(日)
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Crand Seiko 特集
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世界最高峰の国産時計として確固たる地位を築いている「Grand Seiko」。
時計界では稀に一気にステイタスが上がり市場が沸くことがあります。
まさにいま時計界で最も勢いがあると言っても過言ではないほど、人気を博しているブランドの一つです。
その条件や要素は多々あれど、
そのステイタスを維持向上しているブランドの共通点は“歴史的背景に魅力がある”という点だと個人的には思います。
つまり“語れる時計である”という事なのですが、
時計に限らず世に知れたブランドは、深堀りしていくと必ず魅力のある歴史が存在します。
そういう歴史的背景が色濃くあるからこそ、流行などの一過性ではなくその後も永続的に愛され続けていくものだと思っています。
果たして「Grand Seiko」はどんな足跡を辿ってきたのか、
そんな歴史的背景を本編で深堀りして行こうと思います。
歴史を紐解くうえで欠かせないのが創業者。
その名は「服部金太郎」氏。
東洋の時計王と呼ばれ、現代時計界に多大なる功績を残した1人であります。
1881年(明治14年)「服部時計店」創業。
この年代の時代背景は、内閣発足や大日本帝国憲法発布などで伊藤博文や大隈重信らが活躍した時代。
歴の数え方は「太陰暦」から「太陽暦」に変わった時代であり、
時計が庶民に普及していくだろう、、と考えた服部金太郎氏は10代の頃から時計事業に携わりました。
※Memo ※
<太陰暦>(1年を29.5日×12=354日)/<太陽暦>(1年を365日)
欧米諸国の多くは太陽歴を採用しており、諸外国との交易に支障が出ていたため明治政府が是正した。
そんな先見の明をもっていた氏は、
修繕所を構えながら中古時計のメンテナンスや販売を経て時計の技術や商売を学び、本年に「服部時計店」を創業。これが現在の「セイコーグループ株式会社」の前身。
当時は、舶来時計を外国商館から卸して販売することが主流でレッドオーシャン市場だったようですが、その外国商館とのビジネスにおいて「期日厳守」「支払い厳守」を守らない日本商人が多いなか、氏は誠実にそれを守り信頼を勝ち得ていくことに成功。
優先的に卸してくれる関係を築き、「服部時計店」に行けば、品揃えが豊富で斬新で珍しい時計にも出会えると巷で評判に。
そうして氏の才覚もあり商売を軌道に乗せていきました。
これは割と有名なお話しですが、日本人の時間や約束を守ることへの精神を体現していた数少ない商人だったことが伺えますね。
1892年(明治25年)天才時計技師を迎え入れ実現した「精工舎」創業。
「常に時代の一歩先を行く」を信念に掲げる氏は、いよいよ時計製造に着手。
天才時計技師で名を馳せていた吉川鶴彦氏(28才)を迎え、「欧米に負けない精巧な時計を日本で興す」という想いを込めて「精工舎」と名付け創業。
服部金太郎氏(31才)はマーケティングや企画、販路を開拓し製造部門長である吉川氏との分業でのスタート。
精工舎設立当時の掛時計がこちら。
1892年製の掛け時計(当時はボンボン時計と言われた)。
事業を販売と卸で発展させてきましたが、まず取り掛かったのは掛け時計の自社生産。
Grand Seikoといえば、、
部品の一つひとつを素材から研究開発し、ムーブメントの開発設計、製造、組立、調整、検査、出荷までを一貫して自社で行う(垂直統合型)自社生産を実現しており、そのこだわりは潤滑油まで自社で製油するまでに至ります。
現在でもスイスでは、文字盤や針、ボタンなどをそれぞれの専門工場へ依頼し製造、それらを集約し組み立て時計を出荷する分業生産方式を採用しているメーカーも多いなか、明治のこの時代から氏は一貫した自社生産にこだわり体制を整えていきます。
まさに精巧な良品を製造するためのJapanese Made . Japanese Prideが感じられる信念であり、それが現代にも引き継がれていきます。
その想いが社名にも表れていますね。
実際に自社一貫生産を確立できたのはこの先になりますが、この当時からその志向を持ち取り組んでいたようです。
1894年(明治27年)銀座に時計塔が完成。
そんな商売の才覚と好景気が相まって急速に発展を遂げていき念願である「時計塔」を銀座に建設。
当時は高層建築が少なかった時代、6階建てで和洋折衷を取り込んだ壮大な建築物に人々は刮目し瞠目していたことでしょう。
令和になった現在も姿形を変え銀座のシンボルマークとしてそびえ立つ時計塔がそれ。
氏にとってこの時計塔は特別な想いと意味を持っていました。
明治近代化と流行の最先端を走る日本のシンボルマークとして建設され、現在も観光スポットとして有名で経済産業省により「近代化産業遺産」に認定されています。
すでに精工舎は順調に事業を営んでいましたが、ここから更なる快進撃が始まります。
1895年(明治28年)国産初の懐中時計『タイムキーパー』の生産に成功。
この時代の歴史的背景は、日清戦争の渦中。1985年の4月に下関条約を締結し日本勝利で終戦。
戦争後の好況により、日本は第一次産業革命がおこります。
服部金太郎氏は、手作業から動力作業への切り替えが必要と考えていた矢先だったため手を緩めることなく時計製造を加速化。
そうした背景で製造された国産初の懐中時計がこちら。
ムーブメントはシリンダー脱進機を採用。
そのため厚みがかなりあったようですが、研鑽を重ね後年改善されている。
※Memo ※
シリンダー脱進機とは、1695年にトーマス・トンピオンによって発明され、のちにジョージ・グラハムによって改良が施された。アンクルはなく、独特な形状の爪をもつガンギ車と半円筒状のシリンダーが特徴的。
時を同じくして、下関条約の日本有利な通商条約により清国(現:中国)へ掛け時計の輸出をはじめ、輸入販売だけではなく自社ブランド時計の輸出販売の両輪を動かし大成功を収め日本を代表する時計屋となりす。
1899年(明治32年)「恩賜の銀時計」に指定された高級懐中時計『エキセレント』。
明治四十年に陸・海軍大学、学習院、帝国大学など多くの学校の優秀者に天皇陛下が渡した「恩賜の銀時計」。
高級時計がゆえに、庶民には手が届かない褒章的位置付けでしたが、
本年に諸外国の時計工房へ視察にいき刺激を受けた氏は、様々な新鋭の工作機器を購入し精工舎工場へ一堂に並ばせ、技術力のある人材を育てる仕組みも整え、生産能力を25馬力⇒60馬力へ向上させ量産体制を確立。
いよいよ庶民にも手が届く懐中時計の量産へと着手した矢先、、、
1904年(明治38年)日露戦争勃発し、「精工舎」も戦時体制に置かれた。
明治政府は、かの有名なスローガン「富国強兵」を発し日本列島が強制的な戦時下に。
高度な技術力をもった精鋭がいる「精工舎」は、意に反してか東京砲兵工廠の工場に指定され、時計製造の半減を強いられ爆管や兵器の製造に従事することになります。
爆管(薬莢(やっきょう)の底にあって火薬に点火するための装置)の製造には精密さを求められ、精工舎では1日で1,000個を製造したが、軍部からは日産10,000個を厳命されました。
その要望に対し、昼夜製造を止めずに応えたのみならず、約1割の余裕を持ってそれら兵器類を納めたとのこと。
ここら辺が、服部金太郎氏の「約束厳守」の商人としての気骨が感じ取れますね。
本年9月、日露戦争も終結し、またもや景気が上向き、、、
1909年 (明治42年)遂に大衆向け懐中時計『エンパイア』発売
1934(昭和9)年頃までの四半世紀に亘り製造され、明治・大正・昭和初期の精工舎のフラッグシップモデルで輸出の主力製品となる。
懐中時計時代に増産体制を敷き、国内外の市場を開拓し飛躍を遂げていくと同時に、
その利益の大半を元手に、<常に一歩先に>の精神のもと、必ず到来するであろう ”腕時計時代” に向け舵を切るのであった、、、
続きは「Grand Seikoの歴史を深堀り Vol.2」へ
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